昭和52年07月01日 月次祭



 今日昼の御祈念の時に頂きました御理解が、相縁機縁という信心は相縁機縁という御理解を頂きました。今日は朝からここの御広前が一杯になる様な、朝の御祈念にここが一杯になり、そして今日から始まった夏期信行に、お昼またここが一杯でございました。この御広前が割れるような、熱意を感ずる御祈念でございました。そして夜はこの様に御月次祭でございますから、またここいっぱいの人があります。
 とてもこれはただ事とは思われません。ここで皆さんが、信心の稽古をなさる、皆さんがん信心を、本当に一生懸命の思いで頂きなさらなければできることではない。その一人ひとりが、もともとの所を思いますと不思議な、またはおもしろい縁で、結ばれて、で今日この様なおかげを頂き、いうならばこと神様ごとというたらそれに没頭しおるだけのものを段々皆さんが身に付けてこられたと言う事は有り難いことだと。没頭すると言う事はもちろん一生懸命と言う事です。
 おそらくこの大半はね、朝お参りをなさり、朝の御祈念に参ってみえ、そして昼の信行にも参加しそしてまた、今晩七月一日の御礼の御月次祭に参拝なさっておられる方だと思うんです。ね、例えばあの、高橋さんなんかは朝の御祈念に参ってきて、そして一応帰られて、今お店が大変忙しいんです。で帰られて少しでも手伝って、そして今度はまたお昼に、もうこのままいいんじゃないですかって言うたら、いえこの忙しいから一応帰りますと言うて、しかも福岡合楽間を三回も往復しての事です。
 秋永先生達でもやはり同じです。と言う様に恐らくこの半分の方達は、今日は一日ね、合楽へ合楽へと言う事で、ま没頭されたわけでございますね、私はその没頭すると言う事がね、信心の一番大事な所だと思うんです。久留米の初代の石橋先生が、ある時に御本部から偉い先生が、の御講話を聞かれた。信心生活と題してのお話であった。ところが大変いうならば、文高いというか言葉が難しくて理解がしにくかった。先生も私と同じで、学問をしておられませんのですから。やはり難しい言葉が分からない。
 それで、と瞑目しながらお話を頂いておられますけれども、意味は分からない。そこで神様、今折角御本部からおみえで偉い先生のお話をこうやって頂いておりますが、しかも大事な信心生活と題してのお話でございますが、大体どう言う様な所に芯をおいて、どう言う様な、話があっておるか、教えて頂く様にとお願いをなさった。そしたら石橋先生の御心眼にですね、生まれたばかりの真っ裸の赤ちゃんがですね、紅白の絹布、絹の布団の上にこう休まれておる所を頂かれた。
 そしてそれにのしを付け、水引を大きくかけられた御心眼を頂かれたと言う事でございます。以来、久留米地区の者はね、私共の信心生活とは、こう言う様な生き方にならなければ本当の信心生活ではないんだと、もう度々その事を聞かせられてまいりました。それはどう言う事かというと、お互いどんなに素晴らしい人でも、やはり生まれて来る時には一糸まとわず、それこそ真っ裸のままでございますね、それが産着を着せられ、又は寒い暑いに合わせて着物を着せてもらいね。
 住まいに住まわせてもらいたりさせてもらえね、そう言う言うならばすべてがね、神様のお預かり物であり、御物であり自分自身とてもね、神様のおかげでこの世に生を受けさせて頂いておる身であってみれば、一切の事柄にね、水引をかけた生活こそが、のしをつけた生活こそが信心生活だと、その後にお話になったという事ですね、ですから結局あの、没頭すると言う事はもう神様へいうならば、のしを付けておらなければ、水引をかけておらなければできることではありませんね。
 ですから私は、信心に没頭すると言う事はね、そう言う事だと思うんです。それがいうならば、ここにいかに天地の親神様がござると言うても、また天地の親神様は私共の事を、氏子と呼び懸けて下さり、とりわけ信心をさせて頂く者の上の事を信者氏子と呼びかけてくださる。その信者氏子になるまでがです実はそれぞれに、いわゆる相縁機縁によっての縁が結ばれ、縁が段々成就になって参りまして、今朝の御理解に頂きますと、その一人一人が生神を願っての、目指しての信心であると言う事でございます。
 自然界にはもうそれこそ、千年万年かけてでも一切のものを、丸うせずにはおかんという働きがあっておるがね、昨日の御礼神話会で先ほどここで、前講を勤めておりました私の三男ですが、幹三郎が初めて司会を致しました。それで司会のそのう冒頭に申しておりましたね、それこそ千年かかっても神様が、丸うせずにはおかんという働きを、今月も今日も間違いなく御働き続け下されてあるが、私共がこの一月を振り返ってみて、その神様の思いにいかにどう答えたかと言う事を。
 皆さん発表して下さいと言ったらです、私は思わず手を打とうと思うくらいに感心しました。ね、それこそ先年かかっても万年かかってもです、神様は気が長いお方だ大きなお方だ、もうとにかく世界中の氏子が本当に真に幸せになる事のために、これは人間だけではありませんでしょうけれども、生きとし生けるものの上にです、そういう願いを掛けられて、しかも間違いなくね、今月も今日もそういう働きを受けながら、今月ひと月を締めくくらせて頂いたが、それに私共がどう答えたかというのでございます。
 ところが先程から今申しておりました様にね、合楽理念は助かりの理念だと。しかももう絶対の道だとね、合楽理念はもう完璧の域に入ったんだと私が申しております。勿論完璧の域に入ったと言う事はね、いうならなね生神への道はこの道だよ、真っ直ぐこれを行けばいいのだよと言う事なんですね、だからそこをまだそこへ入ったばかりですからね、それは完璧であると言う事じゃありませんけれども、その生神へ向かって一歩一歩前進させて頂くというその手立てを日々の生活の中から頂いていくのである。
 その生活の中から頂いていくその生き方がです、その生き様の中にある所の生神への道というものがですね、お互い不思議な事から縁を頂きね、不思議な働きを受けて、それが相縁となってまいりましたね、いうならばもう切っても切れられない仲というものがだんだん生じてましたからこそ、こと神様の事だというたら没頭ができるのじゃないでしょうか。もう朝参りしとるけんでもうよかろう、もう昼の修行にお参りさせて頂いとるけん、今晩月次祭じゃけれどもご無礼しようと言うた様な事では。
 何か済まされないもの、いやそうせずにはおられないものが私共の体内にですね、漲って来ると言う事がです、そのまま私は信心生活だと思うです。只今のあの選挙の事についてのお話しが有りましたがね、あれとてもです私はやっぱり縁がなからなければね、どの候補者でもここに来ると言う訳じゃないですね、偶々ここで御信心を頂いておられた田中さんとか、久富正義先生とかという方達が縁があってま運動なさっておられる。そんな関係からもうあのようにして、いうならば皆さんにお願いに参られましたね。
 そこからまたどういう縁が生まれるやら分かりません。昨日もお参りになっておられましたが、昨日一昨日伊万里の竹内先生が、秘書同伴であの市政の事について、もう大変な大事な事ですから、今度人事異動がありました。その沢山なその異動のそれをもう一つ一つ細やかにね、伊万里市のいうならば発展繁盛を願われるために、どうしても人材のが、と、同時にその配置というものが大事である。大体おいてこの様に決まったがというて、それのお届けにみえられました。
 もう神その一枚一枚を丹念にご覧になって、そしてこの辺のところが、少しもう少し工夫がいる、この辺のところがと、いうならいろいろ指摘を下さっておかげを頂く。言うならば市長さんが、市のために一生懸命に貢献される。もうそこに私利私欲をはずして、なら伊万里市のために、伊万里の繁栄のために没頭される。そういう政治家の方がですね、それが伊万里だけではない、久留米だけではない。
 日本国中津々浦々にそういう、信心を基にした政治家の方達ができられることの為の、一つの手掛りともなるものだと私は思います。今朝から、久留米市長が夫婦で、月の初めに必ず夫婦で御礼参拝されます。初めは『それこそ自分が市長になる時に、どうでも清き一票を頂きたいばっかりに、まあみえたのですけれども、それからもう次々と、問題があって、最近では自分の人間関係のことやら、家庭の事やら勿論市政のことは、勿論言うに及ばずお取次を頂かれて、おかげを頂いておられますね。
 ですから本当に縁というものは、機縁のようであってそれが、えい相縁と言う事になってまいります時にね、神様のお喜びが一入であると言う事になります。今朝の今朝ではない昼のそのう、御理解の事でございますけれども、もうここに参りまして十年間、いつもその夏期信行、とは40日間でしたかね、50日間でしたかが段々今一月になっとります。全教挙げてのいわゆる夏期信行です。それが丁度もう2回目を繰り返しております。御理解11節の御教えをそれこそあの、ミニ御理解とこう言っております。
 いわゆる簡単な一口の御教えで、御教えを頂いてあの戸板に書いてあるのが、きょうの昼の御理解なんです。それが丁度もう今月一月終わりますと、だから丁度大体二辺通り回る事になりますね、それが全部記録が取ってございますので、今度の十年祭にはそれを、あの本にまとめまして、そしてあのここからその、教典感話集と言った様な物を、ま出させて頂こうと思うております。
 今日の御理解いわゆる相縁機縁と言う事は、今日研修の時にもま話した事でしたけれど、大体教祖様の所であの御教えが出された時には、こう言う事ではなかっただろうかねと言うて、まあお話した事です。まあここに熊本の基山の矢野先生のお嬢さんが修行に来ております。箱崎教会のこれは甘木関係です。それから箱崎教会の佐田先生は、あちらは博多関係の教会です。それに岡山から一人みえております岩部という、先生はどっかあちらの方の、ようと知りもしませんけれども岡山から参っております。
 しかもまあ打ち込んでいよいよ合楽の信心を身につけたいと言うて、まあおかげを頂いておるんです。ですから今までの過去の金光教から言うとです、手続きを越えて来るという事は実を言うたら大変な事でした。もうできない不可能に近かったんです。ところが最近ではだんだんおかげを頂いてね、どことかこことか言う様な、そのまあ縄張りのようなものは取ってしまわなければいけないという、それがありますけれども、まだまだなかなか難しいものがございます。
 それでもそこを乗り越えて、なら博多関係甘木関係、岡山関係と言う様な先生方もここへ、ならみえて信心の稽古をしておりますが、そう言う様な事を相縁機縁と言われるのではなかろうか、と私は思うのです。けれども今日の御理解はそういう意味、だけではなくてそれをもう一つ深めた、意味での御理解であったと思うのです。難儀が機縁を作り、おかげが相縁を生むというのですね。
《「袖すり合うも多生の縁」と言う、親と呼ばれ子と呼ぶほどの深い縁はなけれども、その深い縁を袖にする親不孝、子不孝のものがある。折角親神様の縁を頂きながら、親神様との縁を頂きながら、親子の縁を結びもせず、神をはなれるほどの、神を悲しませることはない。教祖ハ『信心は親に孝行するも同じことぞや』と教え給う。》とあるのです。それこそ親と呼ばれ子と呼ぶほど、深い縁はないのですけれどもね。
 自分のいうならば、おかげを受けたとか受けなかったで、簡単にその縁を外していくような人達もあるが、このように神様を、折角親と子の名乗りが出来る所の寸前までいって、名乗りができないと言う事は本当に悲しい事である。これは私共も悲しい事である。丁度乳飲み子が、母親の膝元までお腹をすかせて這って来ながら、ひざの上に抱きかかえられなかったような、悲しさであります。
 それこそ親は乳が張るわいと言う様に悲しい思いを致します。子供もまたベソを書いてひもじい思いをせねばならんのです。そこのところがね、信心のまあ一番大事なところでございますけれども。というてならば、御神縁を頂いたから早速自分の思うようなおかげが頂けるかというと、決してそうではない。思うようになるかと思うと、この私は今日本に研修の時に、ここのところの親と呼ばれ子と呼ばれね。
 ほどの深い縁はなけれどもというのは、これはあの(?)あたりのところの歌舞伎芝居のね、台詞だと言うて説明したけれど、あれは間違いであった。あれはあのうどんどろだいしでしたよね。巡礼あのお鶴の場にある所のこれはセリフですね、親と親と呼ばれ子と呼ばれるほどの深き縁はないけれども、世の中にはね親が先立ったり、子が先立ったり、思うようにならぬが浮世だと、嘆くところがありますね、そういうこれはお芝居のセリフですけれどもね。
 本当にそういう、思うようにならぬのが浮世ですけれども、信心によって親神様が分かり、親神様の御心を悟り、親神様の心に沿うていく生き方をさせて頂く内に、それこそ思い通りどころではない、思い以上と申しますか、夢にも思わなかったようなおかげが展開してくるのがお道の信心であります。そこでそんならばです、神様が人間、私共の願いをそのまま成就させて下されば良いのですけれども、そういうわけにはいけないね、例えば子供がそれこそ火がつくように、お乳をせがみましてもね。
 それが作り乳の場合なんかはね、それを沸かしたり丁度いい加減に冷ましたりしなければ飲ませられない。泣くからすぐ熱いのを飲ませたら、それこそ口をやけどしてしまう。それをこちらが分からんならもうそれこそ火のつくようにせがむね、お芝居を見に行ってから、いうならばチャンチャンバラバラを見てきてから、ああいう刀が欲しいと言うて願うね、買うてやったらそりゃ喜ぼうけれども、そういう例えばんなら切れる刀をもし与えたとするならば人を傷つけ、また自分までも傷つける様な事になるから。
 どんなに言うても神様は、やはりおもちゃの竹光の刀しか与えられないようなものなんです。ですからそれが欲しいならば、それが使えれるだけの、私にならなければならない。その使えるだけの私になるその過程が、生神へ向かっていく精進なのですね。先日も熊谷さんのお導きでお参りしてくる方があります。初めの間はおかげの泉も何冊も何冊もお読みなされてると言われた。それを読んどられる内にです、大変感動されたね、そして熊谷さんのところにみえてから言われることはですね。
 不平不足の道は教えんでも分かるけれども、喜びの道は教えてもらわなければ、道をつけて頂かなければ分からない事が分かりました。実は私と姑親の問題ですけれども、それこそ嫁に行ってきてこの方、まだ母親というならば嬉しゅう楽しゅう話し合いをしたことがないというほどしの事。この頃はそのお母さんが病院に入院しておられるけれども、見舞いに行ったっちゃ腹かかっしゃる。また行かんとまた腹かきなさる。だからもういっこうその、いわゆるその答えが出てこないと言われる。
 (?)けれども、うちのお母さんばっかりはだめだとこう言う事になっとったけれども、おかげの泉を読ませて頂いて、喜びの道を分からせて頂こうと、という気になったら、習わせて頂こうという気になったら、本気でそれこそ、昨日の若先生の御理解じゃないけれど、気を入れてね、おばあちゃんが好きな甘いものでも、ちょっとは作っていこうと言うて、ぼた餅を作って持っていった。そしたらもう初めて、おばあちゃんが涙を流して喜ばっしゃった。
 おばあちゃんが涙を流して喜ばっしゃる。こちらも涙が出るほど有り難かったと言うのです。喜びの道というのは、だから習わなければできることではないというて、まあいうならば、はあもう信心ちゃあ有り難い。こういう有り難い道を教えて頂くというて信心を続けておられる内に、あれやらこれやら願う事は沢山あって一つ一つおかげになっていった。ところがです、今度はまた元に戻るような事が起こった。
 というのは、そのお母さんとの間に、又家のおばあちゃんなあ元に帰ってしまわっしゃっただろうかと言う様に冷たくなられたね、そういうところがあるんです信心には。本人が有り難くなった。本当に親孝行ちゃあ見易い事だと思うた。心を入れてすりゃそれこそあんなおばあちゃんでも涙を流して喜ばれると分かった。だからそれはやはり続けておったけれども、ある時にまた元におばあちゃんが戻りなさったかと言う様な場合に直面した時に、もうそれこそ高い所から突き落とされる思いで悲しい思いをされた。
 やっぱりいかに喜びの道というても、信心というてもね、いうならば赤子の魂は、いうなら百までと言うように、うちのおばあちゃんの根性はとてもやっぱ直らんというふうに思われるようになってきたというね、どう皆さん思われますか。これはおかげの一つの過程に必ずあるです。お願いをする。おかげを頂く。いやあこの神様はあらたかな神様だ、有り難い有り難い。ここにお参りをしてくると、三日、四日、五日と続いておりますと、もう必ず人相が変わりますよ。うん。それはもう喜びでね。
 心がいく福々となっていくんです。福々しゅうなってくるですね、冷たい感じが温かい感じになってくるです。それは心に信心の喜びの芽が出るからです。けれどもねはあ信心ちゃあ有り難い有り難いと言うて日参り、夜参りしよるかと思うと、今度は思いもかけない自分の、信心しよってもこんな事がと言う様な事が起こってくると、どっこいもうそれで挫折をする人すらがありますね、親と子と名乗ら、名乗る手前まできておりながら、親子の名乗りもせずに去っていく、その後姿を神様はね。
 また縁があっておかげを受ければという祈っては下さるけれども、神様の思いが寂しい悲しい事になってくるね、だからお互いがですね、いうならば本当に信心が有り難い有り難いと言うておるから、神様はそこに本当に有り難いかどうかを確かめなさらなければならない働きが起こってくるのですね、勉強するでしょう。はあ分かった覚えたと言いよるから、どの位覚えたか分かったかをんなら、試験によって先生がいっぺんどの位学力が付いただろうかというて、先生自身が知りなさらなければいけないように。
 もし分かっとらんなら初めからやり直しと言う事にならなければならないように、信心の稽古においても同じ事がいえますね、だからそう言う所をです、私共がね信心に没頭しておらなければね、いうならばおかげというよりも信心そのものがね、育って参りませんと、そう言う所を挫折したり、折れたりする事になりますからね、生神の道というのは確かにそうです。どれだけ信心ができたと言うても、やはりそういうできた。
 分かったというなら、どれだけできたか分かったかといういうならばお試し。教祖様もその事を、御晩年にはこの事ばかりを仰せられたと言う事でございますがね、用心しなされや、信心ができるようになってくると、分かって来るようになると、神様のお試しがありますぞと仰ったと言うね、そのお試しというのは私がここから一段上に、上級にならせてもらう。一段進ませて頂くいうならば。
 チャンスを頂いておるようなものですから大事にしていかなければいけないです。ていうと信心もね自分の良いごと、思いごとになることだけがおかげではない。それこそあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると一人前の信者じゃ、本当の信者じゃと仰せられますように、いわゆる本当の信者を目指す。金光教でいう本当の信者とはどう言う事かというと。生神を目指すという事なのであります。
 というて、遠大なところに思いを置くと言う事ではなくて、いや置くけれどもただ生神様になる生神様になるというのではなくて、今日なら前講でも話しておりましたようにね、やはり遠大なところに願いを置かなければならないけれども、やはりその日その日の自分の足元から、やはり固めていかなければいけない。千里の道もやはり一歩からと言う事です。その一歩一歩を大事にして行く事を実意丁寧神信心というのだと思います。
   どうぞ。